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[掌編]独白

2013.03.18 Mon [Edit]
人を好きになるのは、たやすい。
だけど、ずっと好きでいることは難しい。

人に好感を抱くのはたやすい。
だけど、その好感を維持するのは難しい。

人に恋するのはたやすい。
けれど、人を愛することは、本当に難しい。

大好きだと思っていた彼女に、振られて、そして、落ち込んだのに翌朝にはスッキリしている自分の現実に、思う。

本当に好きになる、っていうのは、この上なく難しいことなのだと。




人当たりがいい、と、言われるこの性格のお陰で、学生時代から特に苦労をしたことはない。
男女問わず、友人と呼べる存在は多くいたし、親友と呼べる友もいる。
そして、いろんな人と関わる中で、みなに好感を抱くのだけれど、その中から好感が恋に変わることも多々あった。

親しく付き合ってきたし、彼女を大事にしてきた、と、思う。

けれど、いつも振られるのは、そこに熱が足りないからだ、と、親友はいう。

恋に浮かされるような、そんな熱がないのだ、と。

だからいつも、彼女たちは愛されていないのだと自分のもとを離れている。

好きだと思ってたし、実際に彼女たちのことを愛していた。

けれど、追いすがって引き止めたいと思えるような相手が今までいなかったのは、とどのつまり、自分がそれだけ、真剣でなかったということなのだろうか。

大好きだった。かわいいと思ってた。好感を持っていた。

それだけじゃ、ダメなんだろうか。


男も三十半ばになりはじめると、結婚について真剣に考える。
ひとりが寂しい、という感情もあるだろうが、現実的な話、子どもを大学まで出してその後、と、考えると、20年以上、25年くらいは現役で収入が必要なわけで、そう思うとさすがに、三十半ばごろが一つの区切りになるのかもしれない。
仕事も、だいたい、右も左もわからなかった時代を通り過ぎ、楽しくなる頃合いあたりで、少しばかり余裕も出てくる。
真剣に将来設計を考えると、このあたりの年が、現実的に落とし所なのかもしれない。

それまで、割りといいな、というレベルの相手でも付き合っていたのが、もっと現実的に相手を見るようになる。
これは、女性のほうが早い段階で来る傾向で、ここ数年、相手は割りと若い子ばかりだった。
未だ結婚までは真剣に考えていないような、けれどそこも視野に入ってないこともない、という子たちは、意外と生活の安定などを考えて、30代の男たちを相手として見てくれる。
しかしながら、未だ余力があるせいか、自分のこの親友がいうところの「熱が足りない」態度のせいで、もっと愛してくれる人がいるんじゃないか、と、飛び立っていくのだ。
逆に、年齢が適齢期といわれる女性はどうか、というと、この人当たりのいい、悪く言えば八方美人とも取れる、この性格をみて、相手からは外すらしい。
誰にでも優しいということは、特別に誰かを大事にするわけではないのだ。悪いことではないけれど、それはそれで、結婚相手としてはどうかな、ということらしい。友人として付き合いのある女性の言葉だ。
悪くないんだけど、と、言葉を濁した彼女の言い分は、おそらく、本音ではもっときついことを考えていたのかもしれない。

現実を考えた、妥協といえば聞こえが悪いけれど、そういった考えだけで結婚を考えることもあるけれど、自分の性分なのか、多少はやはり、相手を好ましいと、もっといえば好きだと思える相手と、結婚したい、と、思うのは間違いではないと思う。

安定した夫婦生活を築いてる人間は、意外と若い頃から長く付き合ってる連中が多い。周りにそういうタイプが多いだけなのかもしれないが、やはり「育んでいくなにか」があるからこその、強さなのだろうか、と、思う。

つまりは、育んでいくことが、いままでできていなかったということだろうか。
誰かと、何かを、感情を、好感を、育んでいく、これができてなかったから、いま、こうして悩んでいるのだろうか。

好感を持ち、好きだと思った相手と、付き合ってきたつもりだった。
けれど、それじゃ、何かが足りなかった。

熱がない、と。
それは、もしかすると「付き合う」という行為だけにとらわれて、相手をちゃんと見ていなかったということだろうか。

周囲の人とそれなりに上手くやっていける、人当たりがいいといわれる性格も、もしかすると、利己主義に近い個人主義的性格を、持っているせいなのかもしれない。
見てるようでみていない。
相手にしているようでしていない。

ああ、もしかすると、だから、いままでそれなりの友人は多くいても、親しいと呼べる友人は数えるほどしかいなかったのだろうか。

その時々で、出来ては離れていく友人を、それが普通だと思っていたけれど、それはもしかすると、その時だけの刹那的な友情だった部分も、多くあるのかもしれない。

大好きだと、彼女のことを思っていた。
大事な相手だ、と、思っていた。

いずれは、彼女と世帯を持ち、家族となることも、ぼんやりと考えては、いた。

けれど、もしかすると、それは、彼女でなくてもよくて、とっぴな相手でさえなければだれでもいいと思える存在のイメージを、彼女に当てはめていただけなのだろうか。

「妻」という立場に立つ相手は、彼女でなくても良かった、ということなのだろうか。

振られて当然だな、と、思う。
そして、そんな感情レベルで「大好きだ」と思っていた自分に、呆れる。

人は、他人の心を完全に知ることはできないけれど、それでも、何かしら波及するものは確かに存在する。

いままでの、うたかたのように増えては消えた友人も、そして、好きだと思い付き合ってきた相手も、すべて、その内心の奥で、この自分の薄情さを何処かで感じ取って、そして離れていったのかもしれない。

あくまでそれは、いってしまえば妄想レベルの想像に過ぎず、実際には大した理由などないのかもしれない。

それでも、自分の感情は確かに、どこか薄情で薄っぺらいものだったんだ、と、苦く笑う。


人を好きになるのは、たやすい。
だけど、ずっと好きでいることは難しい。

人に好感を抱くのはたやすい。
だけど、その好感を維持するのは難しい。

人に恋するのはたやすい。
けれど、人を愛することは、本当に難しい。

けれど、たやすいと思っているからこそ、すべてが難しいのかもしれない。

失った恋を嘆く、などということはないけれど、それでも、愚かな自分を思い、静かに、目を閉じた。

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