[掌編]朱の空の夢を忘れじ
2012.01.13 Fri [Edit]
人は、幼い頃のことを、どのくらい覚えているものなのだろうか。
どれだけの人が、幼い頃の記憶を、どれだけ持ち続けているだろう。
途切れ途切れでも、何か印象的なシーンや、出来事を覚えているものなのだろうか。
そしてそれは、成長する心に、何かの影響を与えるものなのだろうか。

memories / d gypsy!
――私には、幼い頃の記憶がない。
そのことに気づいたのは、高校生の時。クラスメイトと他愛のない会話をしていたときだった。
友人のうち、幼なじみらしき二人が口論の末に繰り出した、お互いの幼い頃の粗相をきくうちに、さて自分は、と、思い返してみて――気づいたのだ。
くっきりと、ある年齢より前の記憶がないことに。
それは、おおよそ小学校より前の記憶で。中学校からの記憶は、はっきりとあるのに。なぜか、小学校時代の記憶も、その以前の記憶も、カケラも思い出せなくて。
愕然とした頭に、浮かぶのは、ただひとつ。
朱色に染まった、空の色のみ、だった。
――どこか遠くで、鈴の音が聞こえた。
――正直なところ、記憶がないからといって、困ったことはない。中学からの記憶の中で、私は友達と笑い過ごしている。そう、何も不自然なことなどなく。確かに幼なじみなどという存在はいないけれど、父の転勤に伴って家族で引っ越した先の中学校での生活は、ごくふつうのもので、そのまま自然と高校まで進学していった。
記憶がない、と気づいたときに両親に問いかけようと思ったけれど、なぜかそれは出来なかった。なぜ、と問われると困ってしまうが、思いかえせば両親が、私の子供の頃の話をすることはなかった。そういえば、子どもの頃の写真も存在しない――今まで不思議に思わなかったことが、次々に疑問として沸き上がってくる。なぜ、と、問うのはたやすい。けれど、聞いてしまえばそこで全てが終わってしまうような、そんな恐怖がジワリ、と心をしめる。故に私は問わなかった。――このままでも何も困らない、そう、自分に言い聞かせて。
それが正しかったのかどうか、なんて。
未だにわからないけれど。
そのまま時は流れて、私は大学へと進学した。普通の高校生活、普通の大学進学――といいたいところではあるけれど、気づいてしまって以来、何も変わらないと思っていた私の内側は、間違いなく変化してしまっていた。そう、何かが欠落している感覚。何かが足りない、何かが失われているようなその思いは、気のせいというのはしつこく私の心にこびりついて、消えようとしなかった。
そのせいだろうか、友人は確かにいたけれど、どこかで私は一歩引くようになった。踏み込めなくなった。うっすらと微笑んで、壁を作り、踏み込ませなくなった。――気がつけば、友達はいるけれどもどこかみなと程々の距離を取る、一人で過ごすことの多い生活になっていた。
大学にもなると、周囲は愛だ恋だと浮かれ始める。特に一年にはそれが顕著で、誰それがかっこいいとか誰それが付き合い始めたと、そんな噂もちらほら聞こえてくる。けれど、私にはそれは遠い話で。どこか、全く別の次元の話を聞いているような気がして、そんな私の心があまりにも傲慢にすら思えて、戸惑いを覚えた。――恋愛に興味がない、わけではないはずなのに。どこかから声がするのだ。
――違う、と。
――間違えては駄目だ、と。
――もう二度と、間違えてはならない、と。
優れた容姿をもっていたわけではないけれど、どこか一線を引く私の態度はクールで大人びてみえたらしく、こんな私にも告白などという行動をしてくれる人が何人かは存在した。好きだ、愛してる、と、まっすぐに見つめながら告げられる言葉に、申し訳ないと思いながら静かに頭を下げつつ、心のなかは「誰か」を求めてきしみをあげていた。
――お慕い申し上げております。
――あなた様が、貴方様だけが、私の……
しゃん、と、どこかで鈴の音が響く。
思い出すのは朱色の空。朱に染まるあの空の色。ああ――私は何を求めているのか。失われた記憶と、次第に強くなっていく誰かへの思慕に、心がかき乱される。
わからない。なぜ。どうして。
目の前には、何人めかの、私に告白してくれた相手がいて。まだ相対しているというのに、浮かぶのは悲鳴のような思いばかり。きしみを上げる心に耐えられなくて、息を浅く繰り返す。気がつけば、ほろり、と、涙がこぼれた。
戸惑いこちらを気遣う相手。その優しさを嬉しいと思いながら、けれど違うと、心が叫ぶ。ごめんなさい、ごめんなさい、と、ただひたすらに謝りながら、止まらぬ涙を袖で拭う。
――そういえば、泣くのは久しぶりな気がした。
そして、私は夢をみる。ぼうと光る世界で、たゆたいながら夢を見る。
翻るくれないの衣、しゃんしゃんと音を立てる鈴の音、音を立てて風に揺れる緑の木々。
次第に激しくなる鈴の音と、翻る衣。そして――最後に大きくかき鳴らした鈴の音が止まった瞬間、崩れ落ちるくれないの衣。
朱に染まる空。そして――砕け散る、音。
――目覚めの時は、まだ、遠い。
fin
どれだけの人が、幼い頃の記憶を、どれだけ持ち続けているだろう。
途切れ途切れでも、何か印象的なシーンや、出来事を覚えているものなのだろうか。
そしてそれは、成長する心に、何かの影響を与えるものなのだろうか。

memories / d gypsy!
――私には、幼い頃の記憶がない。
そのことに気づいたのは、高校生の時。クラスメイトと他愛のない会話をしていたときだった。
友人のうち、幼なじみらしき二人が口論の末に繰り出した、お互いの幼い頃の粗相をきくうちに、さて自分は、と、思い返してみて――気づいたのだ。
くっきりと、ある年齢より前の記憶がないことに。
それは、おおよそ小学校より前の記憶で。中学校からの記憶は、はっきりとあるのに。なぜか、小学校時代の記憶も、その以前の記憶も、カケラも思い出せなくて。
愕然とした頭に、浮かぶのは、ただひとつ。
朱色に染まった、空の色のみ、だった。
――どこか遠くで、鈴の音が聞こえた。
――正直なところ、記憶がないからといって、困ったことはない。中学からの記憶の中で、私は友達と笑い過ごしている。そう、何も不自然なことなどなく。確かに幼なじみなどという存在はいないけれど、父の転勤に伴って家族で引っ越した先の中学校での生活は、ごくふつうのもので、そのまま自然と高校まで進学していった。
記憶がない、と気づいたときに両親に問いかけようと思ったけれど、なぜかそれは出来なかった。なぜ、と問われると困ってしまうが、思いかえせば両親が、私の子供の頃の話をすることはなかった。そういえば、子どもの頃の写真も存在しない――今まで不思議に思わなかったことが、次々に疑問として沸き上がってくる。なぜ、と、問うのはたやすい。けれど、聞いてしまえばそこで全てが終わってしまうような、そんな恐怖がジワリ、と心をしめる。故に私は問わなかった。――このままでも何も困らない、そう、自分に言い聞かせて。
それが正しかったのかどうか、なんて。
未だにわからないけれど。
そのまま時は流れて、私は大学へと進学した。普通の高校生活、普通の大学進学――といいたいところではあるけれど、気づいてしまって以来、何も変わらないと思っていた私の内側は、間違いなく変化してしまっていた。そう、何かが欠落している感覚。何かが足りない、何かが失われているようなその思いは、気のせいというのはしつこく私の心にこびりついて、消えようとしなかった。
そのせいだろうか、友人は確かにいたけれど、どこかで私は一歩引くようになった。踏み込めなくなった。うっすらと微笑んで、壁を作り、踏み込ませなくなった。――気がつけば、友達はいるけれどもどこかみなと程々の距離を取る、一人で過ごすことの多い生活になっていた。
大学にもなると、周囲は愛だ恋だと浮かれ始める。特に一年にはそれが顕著で、誰それがかっこいいとか誰それが付き合い始めたと、そんな噂もちらほら聞こえてくる。けれど、私にはそれは遠い話で。どこか、全く別の次元の話を聞いているような気がして、そんな私の心があまりにも傲慢にすら思えて、戸惑いを覚えた。――恋愛に興味がない、わけではないはずなのに。どこかから声がするのだ。
――違う、と。
――間違えては駄目だ、と。
――もう二度と、間違えてはならない、と。
優れた容姿をもっていたわけではないけれど、どこか一線を引く私の態度はクールで大人びてみえたらしく、こんな私にも告白などという行動をしてくれる人が何人かは存在した。好きだ、愛してる、と、まっすぐに見つめながら告げられる言葉に、申し訳ないと思いながら静かに頭を下げつつ、心のなかは「誰か」を求めてきしみをあげていた。
――お慕い申し上げております。
――あなた様が、貴方様だけが、私の……
しゃん、と、どこかで鈴の音が響く。
思い出すのは朱色の空。朱に染まるあの空の色。ああ――私は何を求めているのか。失われた記憶と、次第に強くなっていく誰かへの思慕に、心がかき乱される。
わからない。なぜ。どうして。
目の前には、何人めかの、私に告白してくれた相手がいて。まだ相対しているというのに、浮かぶのは悲鳴のような思いばかり。きしみを上げる心に耐えられなくて、息を浅く繰り返す。気がつけば、ほろり、と、涙がこぼれた。
戸惑いこちらを気遣う相手。その優しさを嬉しいと思いながら、けれど違うと、心が叫ぶ。ごめんなさい、ごめんなさい、と、ただひたすらに謝りながら、止まらぬ涙を袖で拭う。
――そういえば、泣くのは久しぶりな気がした。
そして、私は夢をみる。ぼうと光る世界で、たゆたいながら夢を見る。
翻るくれないの衣、しゃんしゃんと音を立てる鈴の音、音を立てて風に揺れる緑の木々。
次第に激しくなる鈴の音と、翻る衣。そして――最後に大きくかき鳴らした鈴の音が止まった瞬間、崩れ落ちるくれないの衣。
朱に染まる空。そして――砕け散る、音。
――目覚めの時は、まだ、遠い。
fin
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